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平成14年には法泉寺から
「孝子蛙鞍崎嘉右衛門、妹はる、
父嘉兵衛及び母」の墓が
ここ西谷霊霊苑へ移設されました。


鞍崎嘉右衛門とは、旧甘木市馬場町の焼物づくりを家業とする家に生まれ、
幼い頃から正直で妹はると共に大変親孝行者で知られ、
その業績が数々の本に
記載されています。
「大日本三十至孝子画伝」では、
曾我兄弟・高山彦九郎・
二宮金次郎・武丸の正助・
養老乃瀧伝説等と並び記されています。

孝子鞍崎嘉右衛門兄妹乃事績

考謙天皇の昔、天下に詔して戸毎に『考経』一本を備えせしめられたことの如く此の書を甘木市の各戸に一本を備えられることは今の時代でも必ずしも駄目ではなかろうと思われる

【まえ書き】
この書は徳川時代の著書、「筑前孝子良民伝」並に「考義録」及び大日本三十至考画伝と「孝子鞍崎二氏之碑」に刻まれている事績とを根拠として採録したものである。前期「筑前孝子良民伝」は、寛保元年(嘉右衛門七十才のとき)福岡藩の儒者、 竹田定直が藩内が孝子節婦等良民の善行を集録したものである。この中には約四十名の孝子節婦等の事績が集録されてあるが、そのうち此の地方としては、甘木宿鞍崎嘉右衛門並妹はるの事績のみが記載されてある。「考義録」は寛政三年(嘉右衛門歿后四十七年后)将軍徳川家斉の代に幕府に於いて全国の篤行者三十四名の者が記載されているがそれは、その氏名、住所、年令、職業、褒賞年月、の列記のみに止まっていて、その記績の特記されているものは甘木宿鞍崎嘉右衛門並妹はると、秋月のおはん並徳五郎のみである。「大日本三十至考画伝」は昭和七年山大鳳、同美桐共著で頭山満氏の題字、並文学博士西晋一郎氏の序分がある。全国百孝子の中より特に傑出した孝子三十名を選抜したもので、平重盛、曽我兄弟、日蓮、五郎正宗、二宮金次郎、養老の瀧、高山彦九朗、武丸の正助、楠木正成、水戸光国等と共に三十至考の中に並び記されている。「孝子鞍崎嘉右衛門並妹はる之碑」は、法泉寺本堂の向かって右側に在る、文化五年(嘉右衛門歿後六十五年後)の建立にて、凡そ前三著書と大同小異の事績が碑の三面に渉って刻まれている(現在は西谷霊苑へ移設されました。)

孝子鞍崎嘉右衛門並妹はるの事績

鞍崎嘉右衛門は先祖代々夜須郡甘木宿馬場町に住居して代々土器をつくって家業とした、嘉兵衛の子である。嘉右衛門は生まれつき正直で親に仕えて至考、幼き時より仮にも父母に命にそむいたことがない。成長の後は、不幸にして家が貧しいかったけれども、親を養うにその衣食の不自由かけず、或は親の好むものは自分の衣類を売っても、その願いを必ずかなえさせた。毎夜、親の寝床を敷き、冬は暖かに夏は涼しくするのみならず、親の熟睡するまでは寝床を離れず、或は商売にて他出し夜おそく帰り、又遠路重荷をになって行商に歩き疲れたときも、必ず親の寝床に行きねむらざる間はその枕べにて物語りなどして親を慰むることを怠らなかった。その物語にも人の是非など言わず、ただ山野の景色の話や昔話や今の話などして親を慰め、その熟睡されたあとで、初めて自分の身体を休めた。嘉右ヱ門の妹「はる」は、同じく至考なる者にて、甚だ寒き夜ともなれば、兄妹父の両わきにふし、両方より衣のかたつまを親におおいかけて寒さをふせいだ。父「嘉兵衛」はかねて餅好きであったが、家貧しくて常々餅をつくことができなかったけれども、もち米二、三合はいつも手に入れ、小さな布の袋に入れおき、父の望みに応じ鑵子の蓋にて蒸し和らげ、簡易に餅を作って之を父にすすめ、父の喜びを見て自分の喜びとした。

又父は夜中に及んでさゆ(白湯)を好んでいたのでその時をたがえず用意して父にすすめた。
父老後病甚だ重くなったので、兄妹いたく是を悲しみ、人蔘をのませたら父の命も延びんかと思い、その価の高きことも知らず、わずかのお金を用意し、薬屋に行き之を求めようとしたが、薬屋は嘉右衛門の至考に感じ価をとらずに人蔘を与えたところ代価をとらねば人蔘はもらえぬというので、代銭少しとって人蔘を与えた、この人蔘の効き目と兄妹の手厚き介包によってさしもの重病も全快の喜びに至った。

すべて「嘉右ヱ門」は故なくして一銭もとらず、或日彦山詣での帰り途、甘木より十町ばかり東、石の橋という所にて金入を捨い、之は道にて逢った彦山詣りの人の落したものだろうと思い、「すぐに持っていって落主に渡すべきだ」と云うと同行のものは「今からひきかえし行くのは疲れた身体に大変だから札を立ておくがよい、そうしたら屹度落主が尋ねてくるだろう、その時渡されよ」といえば嘉右ヱ門は「いやいや此の金は定めて彦山にての所用であろうに、落主はさぞ困るだろう」といって彦山の方に追かけ行き一里ばかり行き帝釈寺峠という所の宿にて落主に逢って返した。

落主は大に喜んで日う「此の金入には金一両二分銀三十匁、入っておるが、それより大切な書きつけが入っておりました、それさえうけとれば金子はいりません、深更に及び而もこの山路をしのぎ、此所まで持ってきて下さった志のほどまことに忝けない、金銀はあなたがとってて下さい。」と、嘉右ヱ門はこれをきいて「金銀に望みあれば是迄持参はしません」と日うてさらさらうべき気色もないので、宿主仲に入り「然らば銀ばかりなりと受取られよ」とすすめたけれども、返事もせずに立ち去ろうとするので、落主は「然らば酒なりとも」と袖にすがってとどめたが、「私は下戸にて酒に望みをもちませんから」とふりすてて帰りを急いだ。

又嘉右ヱ門、一木村にて田地をかりて少しばかりつくっていたが瘠田にて年貢ほども出来なかったけれども、そのことを田主にもことわらず税米は滞りなく屹度納めていた。

或る時、田主の言うには「あんな瘠地を辛労して作ること如何なる故ぞ」と、嘉右ヱ門これに答えて「利潤とてないけれども、田を作らねば秋になり父に新米の飯をすすめることが出来ぬ、それ故苦労をかえりみず田を作っている」と、父の歿後も生前わさ初穂を祝うてすすめた時と同様に、父母の仏前の初穂を供え彼岸のうちに必ず供養した。

父嘉兵衛は宝永六年丑八月嘉右ヱ門兄妹の考行を喜びながら歿した、嘉右ヱ門「三十八才」はる「二十九才」の時であった、父歿して兄妹悲哀にたえず、三年の間雨にも雪にも毎日法泉寺の境内にある墓に詣で、花水をささげ香を焚いて一日としておこたることなく、一週年忌、三週年忌には過分供養、法要をしてねんごろに弔った。

又兄妹ともに父歿して後三年を過ぎても、数年の間蔬食して肉味を食することがなかった。

尚ほ父の生前、餅を好み夜中に毎夜白湯を望んでいたことを追想して毎夜その時刻をたがえずやき餅、だんごなどを位牌に供え、白湯を手向けることを怠らなかった。

又亡父の追福のために、法華経の書写を思立ったが、その経を書くべき料紙の用意心に任せず困っていたところ、隣家の医師飯田氏、みずからの所願あって、整えおいた横巻朱軸八巻の料紙を所持していたので、嘉右ヱ門兄妹の志に感じ之を与えたから大に喜び、安長寺の隠居徳岩という僧に書写をたのんだところ徳岩その孝心に感じ快く之れを承諾した、嘉右ヱ門は書写数ヶ月の間、その労を匁感謝し、たびたび蔬菜、果物、菓子等を送ってその労をねぎらった。

又料紙を与えた医師飯田氏には三年ばかり心を用いて、その価を償った。 嘉右ヱ門家ゆたかではなかったが未だ曽て一紙半銭も他のものを理由なく受けたことはなかった。

或る時兄妹二人とも病臥したことがあったとき、隣家の人々これをききつけ、食物などを送ったのに対し、その厚意を感謝すると共に甚だ難儀に思っていた。

又、平生他出するときは必ず親の位牌の前にかしこまり、その行先をつげて暇乞し外出より帰っ至た際も、先ず仏前にぬかずき、只今帰りましたとあいさつし生きたる親に対する如くした。

妹は両親に別れて後は兄を親の如くに尊敬し嘉右ヱ門もまた娘の如くに深くいつくしんでいた、はるは母には十一才の時別れて後は兄妹さしむかい、両親の生前のことなど語りあって悲しんでいた。

「はる」は容儀人にすぐれ、女の仕事も母に早く別れ、人にも交わらなかった為、たれ教ゆることもなかったのに、自分の工夫研究にておりはた、ぬいもの等の女の手芸も人にすぐれていたので、生存の時より妻に望む者多く親類、他家よりも縁をすすめられたけれども、母には死に別れ、父のいたわりをかなしみ、更に婚嫁の心なく又父の歿後は兄の独り住いにて徒然ならんことを思って、婚嫁の事を絶えて承引きせず、老年になるまで独身を通し、ただ亡父、兄に考弟のみをひたすらに思い入っていた。

嘉右ヱ門兄妹のこの篤行甘木はいうに及ばず、隣村の者まで傅えきいて感じ合った所の代官はこのことわ詳らかに聞き及んでいたく感称しここに於て、嘉右ヱ門の居家の破損しているのを修理改捕の料として、米若千を与えたけれども、嘉右ヱ門は「親の住んでいた家であるから、破れてはおれども、改め造るに忍びず」、といって之を固く謝辞した、親類又は近隣の者、嘉右ヱ門をいっさめて「代官より賜はった米を受用せぬことははばかりあり辞退せずして居家を改め造るべきである」、とすすめられやむを得ずして営作することにしたが、桁より上は父の形みであるからといって、古いものをそのまま用ゆることにした、そして父の造った土器の残っていたものを菰に包み之れと父の手なれた杖とを棟木に結いつけて大切に守った。

父生存の時は、貧しくて蚊帳なく、之を作りかけたるも、はかゆかず遂に親生存の時には織りあがらず、父歿して後漸く出来あがったので、その後親の吊らなかった蚊帳を我等のみ吊るにしのびずとて、蚊帳を櫃の中におさめて用いなかった。

嘉右ヱ門兄妹はかく親に孝なる心より、すべてにも仁心深い人であった。

その頃、隣家に悪い犬がいて、人に喰いついたり、盗みしたりして人々困りはて飼主は遂に之を殺すことにしたのを兄妹これをあわれみ、隣家に乞い願って養いおいたが、その後は至っておとなしくなり、人にかみついたり盗みもしなくなった。

心なき獣も嘉右ヱ門の仁心にいつのまにか感化されたのであろうと近隣の人々も感心していたという。

この兄妹は、すべて上を敬い、かりそめに伏すときも城下の方に足をむけず、公役町並の出金等は貧しい中にも時をたがえず、いつも一番に納めていた。

斯の如く嘉右ヱ門兄妹の行績愈々篤く、甘木後の代官は之に感じ更に米若千を与えた。

かくて、嘉右ヱ門の行実、終に国君に聞え、亨保十六年福岡城下に召出され褒美として米若千を賜り面目を施した。

時に「嘉右ヱ門」六十才、「はる」五十一才であった。

この褒賞後九年目の元文五年二月十四日妹「はる」は六十才で兄に先立って歿した。

嘉右ヱ門は寛保三年十一月十七日、七十二才で歿した。前記「筑前孝子良民傅」が出来た翌々年でった。

【あと書き】
この孝子兄妹の墓は、鞍崎家の墓と共に法泉寺の境内に在る。明治四十三年には甘木町孝子顕彰会に於てその墓を修築した、更に大正四年には時の朝倉郡教育歯支会御大典記念事業として再び之を修築した。平成十四年には法泉寺は甘木市持丸にて西谷霊苑を完成した。
そして開山上人、歴代上人並びに鞍崎嘉右ヱ門兄妹の墓を移動開眼した。平成十四年は嘉右ヱ門没後二百六十年忌法要を執り行い其を徳を末永くたたえんとするものである。

平成十四年四月二十七日
甘木 法泉寺 住職  佐々木 寿彦
甘木 法泉寺     世 話 人
甘木 法泉寺     婦 人 会
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